【昭和二十年それぞれの夏】 七歳児たちの戦争体験記憶簿1945年8月15日

1945年8月15日あなたはどこで何をしていましたか
昭和二十年それぞれの夏
七歳児たちの戦争体験記憶簿

東京工業大学1961年卒業向岳寮同期生有志著

注:この記録は、記録者たちの了解を得て、ここに掲載した。
http://kgr36.blogspot.jp/p/blog-page_8.html
(なおPDF版ダウンロード:こちらからうぞ)。


はじめに
 この記録は、いまや八十路を登ろうとする大学同期生たちが未だ七~八歳の頃、太平洋戦争終結前後の記憶を集めたものである。
 目黒区緑ヶ丘にあった大学キャンパス内の学生寮(向岳寮)同期生たちは、日本の各地からやってきて、1961年春に卒業した。戦後復興期から高度成長期に移行しようとする頃であり、60年安保世代である。同じ釜の飯を食った者たち133名、それぞれの生い立ちは、地域も内容も実に多様である。

 その同期生の内でEメールアドレスを持つ者たち44人が、メーリングリスト(ML)のシステムを使って各種の情報交換をしている。同期会の連絡もあれば、自作アート展覧会案内もあれば、自著ブログ記事紹介、病気自慢など多様であり、ネット時代のおかげでけっこう有効に面白く利用している。

 2014年の夏、このML管理者のわたし(伊達)がふと思いついて、「太平洋戦争が終わった1945年8月15日に、貴君たちは何処で何をしていたか教えてほしい」と、このMLに書き込んだ。この問いかけに応えて、多くの仲間がその日だけではなく、多様な戦争体験記憶を書き込んだのだった。下の図の赤印は、それぞれ迎えた敗戦の日の地である。

 この体験記憶のメール交換をしたことを忘れていたのだが、先般、大学同期生たちと話をしていて、今や世の中では戦争体験が風化している話になり、ふと思い出した。そうだ、あのときに多くの仲間が多様な戦争体験を書き、それをまとめたファイルがあった、それをネット公開しよう、公開に値すると思いついた。

 以下は、かつて1961年春に大学キャンパス内の目黒区緑ヶ丘の向岳寮にいた同期生たちが、2014年夏にそれぞれの戦争体験を語るEメールを、原文のまま、時系列にそって並べたものである。なお、個人名は執筆者のそれぞれの意向により実名あるいはローマ字イニシャルとして、挨拶文などは除いた。 
(2018年5月5日 ML管理人 伊達美徳)


(2014年8月15日~31日、向岳寮36会MLによるメール一覧)

01●1945年8月15日あなたはどこで何をしていましたか 
伊達美徳  2014年8月16日16:55  
終戦記念日の昨日、靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑に、暑さの中を物好きにも野次馬徘徊してきました。
 69年前の8月15日は、わたしたちは国民学校初等科の低学年でした。
 あなたは、その日のお昼の頃は、どこで、どうしていましたか?
 わたしは岡山県の高梁盆地の生家の神社で、芦屋から来た疎開児童たちや、近所の人たちとともに、あのラジオ放送を聴きました。聴き終わって神社の森を出ていく大人たちの列が、一様に黙りこくっていたことが強い記憶です。
昨日の靖国神社と千鳥ヶ淵の風景を、お暇ならご覧ください。http://datey.blogspot.com/2014/08/983.html

02●濃尾平野の僻村でラジオがある家に集った大人たちと終戦放送を聴いた 
TS 8月16日21:36  
当日は夏休み。当時の住まいは、濃尾平野の真ん中にある農村地帯の100戸ほどの集落。名鉄電車に乗るには、4kmほど田んぼの中を歩くしか手段がない田舎。食料にはそれほど苦労しなかったように記憶している。
 子供の遊び場として集まる所は神社境内、誰が伝えたか記憶はないが、ラジオのある家に集まれとの号令。大人に混じって終戦の玉音放送を聴いたが、正直言って中身は理解できず、「負けたんだ」というため息ともつかぬ声を発しながら、皆元気なく家に帰ったようだった。こんな田舎でも、艦載機による一斉射撃がときどき学校帰りの子供たちにも襲い掛かり、それがなくなることが一番うれしかったように思う。
 2学期で登校したときに一番ショックだったのは、いつも拝礼していた奉安殿が取り壊されていたこと。
 その意味を理解できないまま、教科書も墨で塗りつぶし、世の中がずいぶん変わったんだと何となく意識させられたようだ。

03●豊橋の空襲で焼け出された掘立小屋で敗戦を知った 
森  猛 8月16日23:15  
1945.8.15の所在:私はその日、豊橋市内に居ました。家は空襲で焼け、同じく焼け出された親戚が作った掘っ立て小屋に居候していました。15日を思わせる記憶は何もありません。居住していた記憶と期間から居場所を推測したものです。ラジオは無く、玉音放送は聴いていません。
 翌日以降に近所のオジサンが「日本は負けたソウダ」と語っていたのは覚えています。空襲警報のサイレンが無くなり、正午に吹鳴されるようになったのが、すごく新鮮でした。

04●空襲と艦砲射撃の浜松で赤痢に罹って入院していた 
MT 8月17日8:10   
終戦日の記憶は、はっきりとは覚えていない。前後の状況から、推測するしかない。8月15日の居場所は、浜松の「ひ病院」、要するに、隔離病院。空襲で焼け出されて、住んでいたバラックの近所の人が死んで、そこで出た葬式まんじゅうを食って、同じく「赤痢」になってしまって、隔離病院に担ぎ込まれた。
 担ぎ込まれたというのは正確でない。乳母車に乗せられて、あの一国を(東海道)行ったけど、その直前にあった、「艦砲射撃」によって、道路は穴だらけ。おふくろと兄貴が、乳母車に竹竿を通して、前棒ー後棒で担がないと進めなかったのをおぼろげながら覚えている。ハハ、ハハ、 やはり担ぎ込まれたのだ。
 「病気療養」中に終戦。翌日ぐらいに(?)艦載機が来襲。(飛んできた)電線のすぐ上くらいの高さを飛び回り、艦載機のパイロットの顔と黒いマスクがはっきり見え、笑っていたような感じを受けたのを鮮明に覚えている。これで、この高さまで来ても、機銃掃射をされずすむのだと感じたことも覚えている。
 空襲で焼け野原になり、艦砲射撃で、穴だらけになり、赤痢で、隔離された時代。何回か死にそうになったことは、思い出したくはないけど、こんな経験は今の世代にはさせたくないね。

05●東京から疎開した松江で玉音放送を家族で聴いた 
HK 8月17日9:13   
4月8日(昭和20年)の夜に、今の旗の台駅のすぐ近くの我が家から、松江に強制疎開。記憶が確かなら翌4月9日に、例の(と言っても知らない方も多いでしょうが)〝東京大空襲〟があり、東京は焼け野が原になりました。我が家は何とか焼けなかったようですが、もし疎開していなければ防空壕の中で恐ろしい一夜を過ごしていたことと思われます。
 その前にも何十回と防空壕で爆弾が落ちる音を聞いていましたが、小学校低学年と幼かったためか、大人ほどには怖さを感じていなかったようです。
 東京と違って松江は空襲もなく、平和でした。それでも学校では戦時教育が行われていました。
 今でも思い出すのは給食のとき、節をつけて、意味は分からないまま「コノゴハンヲイタダケルノワテンノーヘーカヤリョーシンヤヘータイサンノオカゲデアリマスコノゴハンヲイタダイテオクニノタメニヤクニタツヒトニナリマスイタダキマス (このご飯を頂けるのは、天皇陛下や両親や、兵隊さんのお陰であります。
 このご飯を頂いて、お国のために役に立つ人になります。頂きます)」と言ってから(というより唱えてから)、米がほとんど入っていない雑炊(給食はこれだけ)を啜って、無くなると弁当箱の底や蓋についている汁を舌で舐めていました。
 懐かしい思い出です。こういう粗末な食事を食べていたお陰で今、健康に過ごせているのだろう、と思っています。
 8月15日ですが、父と二人の兄(中学生)がラジオの前で正座して聞き入っていました。近寄りがたい雰囲気だったので、そっと逃げ出しました。玉音放送が終わって、昼食時に父の話で戦争に負けたことを知りました。「勝つはずだったのに負けたんだ」と思っただけで、今後の生活が大きく変わることまでは、理解できなかったようです。
 その後は皆さんと同様、今では想像すらできない、ひもじい貧しい毎日を過ごしました。

06●香川県三本松町の自宅で敗戦放送を近所の人たちと聴いた 
KN 8月17日10:34  
思えば昭和32~3年ごろ寮で話が出たのではと思いますが、あの時以降の方がはるかに長く生きてきたのだなあと感慨ひとしおです。皆さんが疎開した先よりもっと田舎に生まれ育った小生でも、戦争の記憶はあります。
 姫路へ向かうB29の編隊、気まぐれグラマンが子供を機銃掃射した話し、防空壕を掘るのに手伝ってくれたお兄さんが空き巣に化けた話。何より、半農、半漁の町で少ないサラリマン家庭、食糧不足には一番困った。
 昭和20年8月15日、香川県大川郡三本松町立三本松国民学校2年男子組でした。勿論夏休み中でこの日は朝から家にいました。父は学徒動員の引率か、学校か家にはいなかった。大通りから枝分かれした小道に住宅が7~8軒あったが、母が皆さんを呼んできて、という。
 鴨居の上の神棚様の所にラジオが置いてあった。スピーカーボックス位で、縦のカーテン窓、その下に口をへの字に結んだようなダイヤル窓、その下に山形に配置された3個のボタン。左からON/OFFボタン、ダイヤル合わせ、ボリュームである。縦型国民普及型(4球)と言うらしい。勿論後々知った。
 「ジッジー、ジッジー ニュースを申し上げます」と言うやつがしょっちゅうなっていた。そこの半分畳み、半分板敷の部屋に7~8人がちょこんと座っていた。私には、内容は一切不明。ただ異様だったのは、近所で一番怖い、いつも子供を捕まえては叱っているおばさんが、目をしょぼしょぼさせながら帰って行ったのが記憶にある。
 その後の小学校、中学校時代は偏向教育があったかどうかは、人それぞれの考えでしょうが私には、大変楽しい、自由な子供時代ではあった。

07●満州の延吉で玉音放送を聴き混乱の中を助け合って引き揚げてきた 
笠原 弘至 8月17日13:32  
私は満州で終戦を迎えた。満州東北部の北朝鮮国境から数十キロ離れた「延吉」にいた。現在は縁辺朝鮮族自治区の中心都市で脱北者が目指す場所です。日本人は周辺を含めて三万人位住んでいたという。父親は満州国官吏だったが5月末の「根こそぎ応召」で不在、家族5人で官舎に住んでいた。B29が上空を通過していたが、空襲はなかった。ソ連軍はまだ到達していなかった。広島に新型爆弾が投下されたという話を大人たちがしていたことを憶えている。
 天皇の玉音放送は近所の人と聞いた。戦災に無縁だったのでその後しばらくの間、周りに変化はなかった。
 突然ソ連軍が進駐してきた。ソ連兵のやりたい放題のほか朝鮮人、中国人の報復行為がはじまった。また満州開拓団や青少年義勇兵、関東軍兵士などが助けを求めて多数やってきた。混乱状態がはじまった。
 しかし、こういう無政府状態にあると心ある世話役が現れ、日本人は結束して冷静に対応していたと思う。学校は閉鎖されたまま一年余を過ごした。私は終戦時8歳だった。日本円が暴落したであろうなかでどうやって生活できたのか母に聞くチャンスを失った。 その後ソ連軍が撤退し、アメリカの援助により私たちは翌年十月福島県へ引揚げることができ、私は一年落第して小学校に入った。

08●朝鮮の平壌で敗戦を迎えて大混乱の中を苦労して引き揚げてきた 
NI 8月17日20:33  
私は終戦の日は、朝鮮の平壌(今の北朝鮮の首都)にいました。父が平壌にあった紡織工場の役員をしていたからです。50軒ほどあった府営住宅(住んでいたのは日本人のみ)の一軒に父母と兄・姉・私の5人で住んでいました。8月15日の記憶は殆どありませんが、大人はラジオを聞いていたようです。聞いた後も「大変だ」と動揺していたとの記憶はありません。
 それからの1年間は事態が一変しました。終戦の数日後にソ連兵(ロスケと言っていた)が進駐して来て、日本人の住宅に来て、家財道具(最初はラジオ:「ラジオ、ラジオ」と言いながら)を掠奪していきました。
 数日後には府営住宅を追い出され、やむなく、近所の競馬場の傍にあった私の小学校の友達の家に同居させてもらいました。しかし、そこも数週間で追い出され、1kmほど離れた6畳間3室のボロ家に3家族で暮らすようになりました。被植民地住民であった朝鮮人は、日本人に対して掠奪や暴行などの行動は起こしませんでした。今の韓国大統領の様な日本人に対する敵意も感じませんでした。
 衣食住(特に食)に大変だったであろうと思いますが、小学校2年生だった私にはその記憶はありません。終戦から1ケ月後くらいには、ソ連兵も幹部が進駐して来てその行動も落ち着きました。 私の母は洋裁が得意(若い時は東京に住んでいたので目黒のドレメを出たのかな?と想像しています)だったので、ソ連兵の幹部の官舎に行って、奥さん連中の洋服を縫ってお金は勿論、食べ物もいろいろもらってきていたのが大きかったように思います。男にはコエタゴ担ぎくらいしか仕事が無かったので、助かりました。
 話を帰国(「内地帰り」と言っていた)に移します。ソ連が支配していた北朝鮮からは合法的に帰国する手段はありませんでした。昭和21年の8月2日に、同じように難民と化していた日本人家族7~8世帯30人ほどが、徒歩で40里(160km)南の38度線を越える為平壌を出発、途中雨にあったり、川を裸足で歩いて渡ったり、との工程をただ背中と手に荷物を持って歩きに歩きました。
 途中、銃を持ったソ連兵に会ったりもしましたが、特にトラブルもなく、昭和21年8月15日に38度線(小高い山)を越えました。38度線を夜に越えて、南朝鮮の原っぱで寝ていたら、アメリカ兵が来て難民キャンプに連れて行ってくれました。難民キャンプで頭からDDTを掛けられ、殆どトウモロコシの食事を与えられ、2~3日過ごした後、汽車で釜山まで送られ、釜山からは汽船で9月2日に博多に着きました。8月15日の話が、9月2日までの話になってしまいました。
 蛇足ですが、平壌は空襲は皆無でした。庭に防空壕も掘り、空襲に備えていましたが、たまにB―29、ロッキードとおぼしき飛行機が上空を飛んで行くだけでした。住んでいるのは日本人より朝鮮人の方がはるかに多いのですから、空襲をしないのは当然だったのでしょう。
 もう一つ蛇足を。上記のように私は小学校2年生で1年間浪人しました。その為、現役入学の人より1歳年上なので、大学入学で1浪したと誤解されることが多く、あまり良い気分はしません。
 私は日本のマスコミの報道は戦争被害と言えば、「広島・長崎の原爆」と「東京大空襲」ばかりなので、何時も腹立たしく思っています。国内でも他の都市の空襲もあり、中国その他の国での難民も沢山いる筈なのに殆ど報道しないのが腹立たしく、今回、そのストレスが長い話になった理由だと思います。

09●名古屋から岐阜県郡上郡に疎開していて敗戦を聞かされた 
山崎 嘉彦 8月17日22:39  
国民学校2年生の終戦は(いや敗戦)岐阜県郡上郡で迎えました。おやじの勤め先が疎開したのでそれに伴う引っ越しでした。名古屋に比べ田舎はのどかでした。8月15日はよく晴れた日だったことを覚えています。戦争に負けたと誰か、多分親から聞かされたような気がします。その後、負けたのではない、無条件降伏だといわれ負けたよりは少しはましなのかと思いました。
 それからは意味も分からず教科書の一部分をのりで張り付けたり、戦争ごっこを禁止されたり、とにかくわからないことずくめでした。そして御多聞にもれず空腹、それから早や69年、本当にそんな時代があったのかなあと思う最近です。

10●台湾で終戦を迎えて翌年に米軍駆逐艦で鹿児島に引き揚げてきた 
KA 8月18日7:27   
皆さんの状況を読んで自分も思い出してみようと思いました。
 生き証人の母は、98歳で近くの民間の介護施設におりますが、穏やかに息をしているのみです。農家3男の父は、田んぼを与えられるのは長男だけというおきてに従い、農学校を卒業し、台湾の大日本製糖のサトウキビ農場にいましたが、召集されそのままでした。
 母、小学校1年生の私、3歳の弟3人が、農場から離れた疎開地にいました。台湾は、日本が善政をしたこと、フィリッピンの次、台湾を飛び越して沖縄に戦場が移ったため、米軍の攻撃はほとんど感じなかった。
 昭和21年3月に、米駆逐艦で鹿児島に上陸。DDTを体に浴び、汽車で4~5日かかって、まだ冷たい山形駅(母の実家)に着くまでの記憶が抜けています。

11●高崎から疎開した庄原で広島原爆投下の音を聞いた 
瀧口 忠彦 8月18日14:08  
伊達さんの投げかけから、みなさんの厳しい体験談、神妙に拝読しました。なかに原爆の話もあったので、広島在住者として綴ってみます。
 ピカドンは、私は群馬県高崎市から広島県の北東のはずれ庄原市に疎開していた時である。疎開の道中は東海道線は危ないと、中央線経由でのろのろ帰ったが、列車はちょくちょく途中停車。どこかの駅舎でぶるぶる朝 顔を洗ったぐらいの記憶しかない。原爆投下当日、70km程度離れた庄原でも、ピカ!と光ってから、しばらくしてドーンという音を聞いたように思う(姉たちの証言にて確認)。
 戦争も終わって高崎に帰る途中、バラックの広島駅から灰燼に消えた市内を見たことです。煤だらけになり、途中休み休みの列車で何とか高崎に戻った。ところが、高崎は焼夷弾にやられて散々だった。高崎では「風船爆弾」を作っていたために焼夷弾を投下され、町中を焼かれたと。
 その風船爆弾を作らせたと、親父が新聞紙上で徹底的に叩かれ、もはや高崎には住みたくないと、申し出たが認められず、(藤岡中学へ転籍命令あり)加えて、某党へ入党をするよう説得されたり、困惑の日々を過ごすが、結局半年休職、ようやく退職決まって、広島へ帰ることになった。
 子供のころはなんのことやら分かたなかったが、姉たちから教わった。職もなくルンペン生活の始まりである。それでも親戚の農家に助けられて、なんとかやってこれたのはまだ幸いであったようだ。厳しい生活だと思いつつも、ほかの人の話を聞いてまだいい方だったことを知る。一升瓶に玄米を入れて棒で突いたり、庭に芋畑を作って食ったり、籠につっかいぼうでスズメを捕まえ、食ったうまさは今も忘れられない。(20190610一部追加)

12●忍町(現・行田市)で終戦の日を迎える直前に空襲に遭った 
N(K)Y 8月18日15:20  
終戦の日の事を振り返ってみましたが、何も覚えていません。当時埼玉県北埼玉郡忍町(現行田市)に住んでいました。父親は北支に出征しており祖母、母、弟と住んでいました。
 終戦直前には隣の市の熊谷が夜間空爆され、途中のわが町にも照明弾が落とされ、昼間のように明るくなった。爆弾投下を恐れ隣人たちと近くの竹藪に逃げ込んだが糞が出たくなり、穴を掘って用を足した。変なことだけ覚えている。
 終戦日の件は何も覚えていない。終戦の件は母から聞かされ、これで助かったと思った。母の実家が徒歩30分位のところにあり、農家をしていたので食べるものには困らなかった。父は終戦後間もなく帰ってきた。自分にとって戦争の影響は少なかった方だと言える。

13●台湾の田舎疎開先で敗戦の日を迎えてリュックひとつで引き揚げてきた 
YS 8月18日16:14  
戦前は台湾の屏東というところにいた。終戦1年ほど前には空襲警報も頻繁に出るようになり、少し離れた千歳村という田舎に疎開していた。ラジオなんかなかったようで、玉音放送は知らない。大人たちから戦争の終わったことを聞かされた。しばらくして親父が疎開先に軍隊から帰ってきたので、終戦を実感した。
 疎開から帰って半年ほどは、台湾人がいろいろな食材を持ってきて、衣類などと物々交換していた。日本に引き揚げることになり、持ち物は1人リュックひとつということなので、家の前にゴザを敷いて売れそうなものを並べてニワカ商人をやった。高雄の港の倉庫に集結し、1週間ほど待たされた。
 やっと番が回ってきて貨物船に乗ることができた。船底に雑魚寝で1週間、広島県の大竹港に着いた。ここに数日滞在。検疫でDDTを頭から振りかけられた。岡山県の久世に帰り着いたときは桜の頃で、寒かった気がする。

14●茨城の田舎町で平和に終戦の日を迎えたが3年間も闘病生活 
MH 8月18日17:28  
終戦の日のことは覚えていません。父母から戦況の話題を聞いたことがなかったように思います。
 家は、2階建の洋風建築の信用組合に隣接する社宅にあり、戦後は農協になり父は信用組合の理事長から職員になりました。食べ物は都会の人より恵まれていたと思います。そこで一度も引越しをせずに大学生になるまでいました。
 皆さんの波乱万丈の体験はすごいと思い羨ましく思いました。私の体験は、通学3年間の闘病生活です。手足の皮膚に内出血する病気(あとで血小板減少 性紫斑病とわかる)で欠席しがちで、運動はダメ、サナタリウムに入院しているような気分で、死ぬとは思いませんが、外を飛び回れるようになるとは思 いませんでした。井伏鱒二の山椒魚や奥の細道に惹かれました。
 私の青春は、大学を卒業して富士通に入ったころから始まったと思います。

15●三次で終戦を迎えてその後の学校や社会の変化に驚く 
MS 8月18日21:01  
八月十五日といいますと、当地ではお盆のまっ最中で、一年生だった私は隣村の親戚に居て、昼どきに大人同士がヒソヒソと「戦争が終わったのかどうか、天皇陛下さんのお言葉がラジオであったそうな」とささやいていました。広島市から70キロも離れて居る現在の私が住んでいる地ですが、当時のラジオの受信状態は全く悪くて、ほとんどの人が聞き取れなかったらしいです。
 その終戦日(今でも敗戦日、などという言い方が言えない私です)から一週間前には、広島市の原爆の影響が我が町にも影響があって、この時期に私の父は、その妹のご亭主が広島市内へ原爆投下の当日に広島市に行ったはいいが、帰って来ず行方不明、兄である私の父に探索依頼をして、出かけたのがこの頃でした。
 広島市から、私たちの町の、お寺に疎開してきていた小学生の一団は、帰ってゆく先もはっきりせず、地元の私達小学生は接触もしていなかったけど、大人達は、「あの子たちはどうなるんだろう」とも噂していました。暑い夏の日の時期でしたが、どんよりとした雰囲気の夏休みでした。
 (以下は2018年4月25日追記)そんな八月十五日前後の記憶であっても、私にとっては、二学期からは大きな生活変化がありました。一学期の四月、小学校入学式には祖母から教わった通りに、一人ずつの面接らしき質問には「ハイ、大きくなったら兵隊さんになります」と言ったし、奉安殿の前では必ず深く頭をさげなくてはならなかったし、運動場では三年生以上の男子は配属将校から行進の訓練を受けていました。
 そんな日々も夏休みの戦争終結から二週間もたたないうちに二月期が来て、親父の仕事の都合で六十キロ離れている広島市の郊外に引っ越すことになりました。だから二学期からは新しい小学校で戦後の生活が始まりました。
 温品という村の親戚の離れ屋を一家四人で借りての暮らしとなりました。その親戚の家屋は大きかったので、広島市から焼け出された、二家族も住んでいました。広島の郊外と言っても、当時はまだ農村地帯なので、農家は米の収穫もあって食うには困らない環境ですが、我が家のようなサラリーマン所帯は米も配給、「非農家」と言う呼ばれ方をしていて、食べることでは、ひもじい思いもしていました。親父は少し離れた山すそを開墾をしてそこに植えるジャガイモやカボチャのために私には肥たごの片棒を担がせました。あの二百米の距離を数回も運ぶのでつらかった。
 小学校では、どこかに残されていたのだろう、軍隊の鉄かぶとを運動場の隅に集めてボコボコにして焼却、それを進駐軍がジープで乗り付けてきて、確認していました。友達の誰やらは「ギミーチョコレート」と言って貰ったらしいというのが羨ましかった。
 原爆が落ちてからの数ヶ月後、秋になって広島市内に親父につれて行ってもらった。ガレキだらけだったはずだが、あまり記憶にはなくて、強い印象は広島駅前の東側に闇市が出来ていて、そこを通り抜けるときには活気がありました。金があれば食べるものも買えたけど、見て通り過ぎるだけ。
 紙類も不足していたので教科書は新聞紙のザラ紙に刷られていて、ハサミを持参して切り抜いて使っていたし、古い教科書では黒い墨塗りもさせられました。
 昭和二十一年の終わりあたりまでは、とにかく腹が減っていたという記憶しかありませんでした。

16●その頃の東工大Q研究室では風船爆弾研究をしていた 
 8月19日12:47  
私はB研究室の出身ですが、Q研究室では風船爆弾の研究をしていたそうです。昭和19年卒の先輩が以下のような手記を書いておられます。
「秘密兵器○ふ研究余録:陸軍では風船爆弾を「○ふ」と呼んだ。気球の皮膜は、和紙にこんにやくマンナン水溶液をコーティングして調製した。Q研では、この調製条件と皮膜の機械的性質及び水素透過速度との関係を追求した。この頃、工大に異変がおこった。在宅のお嬢さん方が大挙して工大に押し寄せたのである。学生が動員されて、ひっそりとしていた本館が一斉に賑やかになった。工大は女子大に変身した。ある日、私の所に見知らぬお嬢さんがやって来た。私の妹の親友の妹で、今回航空工学科に配属されたので挨拶に来たのだった。B研にも5人のお嬢さんが配属され、○ふ研究を手伝うことになった。実験室に、時ならぬ大輪の花が咲き乱れた。連日の実験で疲れ果てていた学生たちは、にわかに元気を取り戻して、研究が加速された。学生たちとお嬢さん方との交流が進み、やがて、お似合いのカップルが誕生し、めでたくゴールインした。上述の、ややこしい関係のお嬢さんも、配属先の学生と結婚した。情ない話だが、私の周辺には、それらしい気配は全くなかった」。

17●父が校長だった高崎の女学校で風船爆弾を造っていた 
瀧口 忠彦 8月19日17:46  
風船爆弾記:うちのおやじは高崎の女学校長をしていて、校舎を改装して外壁を真っ黒に塗り、校舎内で女学校生達に風船爆弾作りをさせていたらしい。同地は和紙の産地でもあったとか?、(太田の中島飛行機工場も近い、また火薬の工場も近くにあったとか?)、その真っ黒な木造校舎の脇の溝を挟んですぐ近くの民家まで焼夷弾に燃やされた。
 飛行機の代わりに、この風船爆弾が無事に北米まで飛んで、アメリカ大陸を焼き尽くす予定だったのか? そういう計算をしたのは、工大生か?。それでも工大生と一緒になれたご婦人がハッピーであったことと信じる。

18●風船爆弾の効果のほどはどうだったのだろうか 
HK 8月19日20:22  
小学校の時、友人に聞き、最近テレビでもチラっと聞いた気がするので、これは有名な話で既にご存知かもしれませんが、「風船爆弾は実際アメリカに飛び、少なからぬ被害を与え、アメリカは非常に恐れた。そこで箝口令をしいて全く影響がないように見せかけていた。それにまんまと日本は引っかかって、風船爆弾は効果がない」と思いやめてしまった、という話があります。真偽のほどは責任持てません。

19●風船爆弾はアメリカを恐怖におとしいれていた 
伊達美徳 8月19日20:22  
風船爆弾についてこんな動画がありますよ。
https://www.youtube.com/watch?v=MSHrAk3Jb28

20●疎開先の鹿児島の山奥から長崎方面に原爆カボチャ雲を見届けた 
TY 8月19日23:19  
生まれ育ちは鹿児島の片田舎です。終戦前、これ以上の山奥に人は住んでいないようなところに疎開で引っ越ししていました。焼夷弾で町全体が類焼するのを防ぐために、家の間引きに会い、見事に家が壊され、山奥にテントで引っ越ししたのをいまだに鮮明に記憶しています。引っ越した山奥から、北の方向に八代海がかすかに見え、その先に天草島がかすかに見えていました。
 日にちははっきり記憶にはありませんが、夏の暑い朝、雲一つない暑い日の朝、木陰の多い木に登り、八代海の方向を見ると、カボチャを逆さまにしたような雲が、天草島の上の方に見えました。大声で近所にカボチャを逆さまにした雲があると木の上から叫んだけど、何せ山の中のせいでか、誰にも声は届かなかったみたいです。終戦のちょっと前くらいの記憶はあります。しかし、その雲が見る見るうちに形が変わっていくのも記憶にあります。この時はそれでおしまいです。
 小学4年生の時、学校で長崎の原爆の話を聞きました。その時聞いた雲の形が、2年前に見た雲ではないかと地図を調べたら、確かに長崎の方角です。変わりゆく雲の形からしても、まさに長崎の原爆の雲でした。玉音放送は山の中では聞きませんでしたが、終戦のきっかけになる爆弾の雲は見届けました。

21●桑名を空襲で焼け出された先の村で終戦放送を聴いて嬉しかった 
N(G)Y 8月20日13:32  
昭和20年には、私は三重県の桑名に住んでいました。父は、ニューギニアの戦地に出兵中で母・兄・弟との4人暮らしでした。当時、「敵機接近中」や「空襲警報発令」の警戒警報や空襲警報がラジオから頻繁に出、B29が何機も頭上を名古屋方面に向かって、唸り音をたてて飛んでいきました。警報が出ると、家の土間に掘った防空壕に入ったり、近場の避難地まで行って、大きい土管の中に逃げこんだりしていました。
 そして、7月17日に、桑名が全面空襲に遭いました。6月に四日市で空襲を体験した叔母から「天井に豆をまく音がしたら逃げなさい!」と聞いていたが、この夜寝ている時、まさに天井に豆をまくようなバラバラという音で目が覚め、「あっ、空襲だ!」と、びっくりして飛び起きました。この日は、たまたま空襲体験をした叔母も泊りにきており、「何も持とうとせずに、すぐ逃げなさい! 防空壕に入るのは危ないから田んぼの方に逃げよう!」と言って先導してくれました。
 外に出ると、総ての家の軒から、蝋燭のような火が立ち並び、昼間のように明るかった。照明弾や焼夷弾が雨のように降る中を、街路樹の陰に隠れながら、ひたすら田んぼに向かって逃げ、田植えで水のたまっていた田んぼに飛び込みました。田んぼの泥沼には大きな不発弾らしい穴もあり、滑り落ちそうにもなりました。夜明けなると空襲は止みましたが、横に子供を背負った母親がいて、「よく眠っていますね」と声をかけたら、「この子は死んでいます」との言葉が帰って来たのを忘れられません。
 この空襲で家を焼かれ、近くの神前村の養蚕農家の2階広間を、数世帯共同で借りて住むことになりました。このような田舎でも戦争の影響はあり、学校の下校中に超低空飛行した爆撃機が道に沿って絨毯爆撃して来たとき、あわてて道横の馬小屋に飛び込んだのも忘れられません。
 そして、ここで終戦を迎えることになりました。この日、比較的安全と言われていた午前中に外出して帰ってくると、何人かの大人達が集まって話合っていました。「どうも、天皇陛下のお言葉がラジオで流れたらしいが、何をいっておられるのかよくわからなかった!」、「戦争が終わったみたい!」、「勝ったのか負けたのか よくわからない!」というような話が聞こえてきました。このとき、子供心に、勝ち負けよりも、「これで空襲の心配なく外に出られる!」と思えたのが非常に嬉しかった。そして当日の午後、半信半疑で空を眺めながら、友達と村内を歩いたのを覚えています。

22●長崎から疎開した佐賀で敗戦を迎え佐世保に移り米兵に出会った 
HM 8月21日 1:45  
亡父は戦艦武蔵を建造した三菱長崎造船所で、ディーゼルエンジンの設計をしていました。私たち家族は造船所内の社宅に住んでいました。しかし、戦況から危険になってきたと両親は判断し、当初は爆心地近くの城山小学校の学区内が造船所等空襲目標から離れているので安全と考え、引っ越そうとしたものの手違いで引っ越せなくなり、やむを得ず母方祖母の従姉妹が住んでいた佐賀市に家族のみ引っ越す事になったのが、終戦の半年前でした。
 父は単身造船所に残りましたが、造船所を目標にしていたと思われる原爆が風に流されたのか浦上地区に投下された為、助かりました。しかし直後に爆心地近くで救助活動等をした為か、被爆し体調を崩し戦後の財閥解体指令も有り、戦後長崎での職を失いました。見渡す限り焼け野が原になった懐かしい長崎市の惨状は、終戦後間もなく父に連れられて見に行きました。
 佐賀市はB29大編隊の通り道になり度々空襲警報が発令され、その度に集団下校し警報解除後弁当を持って再登校したものの、大規模空襲は受けませんでしたが、背後から遊弋していた戦闘機に機銃掃射を受け、屋内に逃げ込んで難を逃れる経験もしました。
 終戦のラジオ放送は、母がラジオの有る家に行って聞き、涙目で帰ってきたのを覚えています。敗戦となった以上敵兵が進駐してくるので、女子供だけで居るのは不安という事になり、2学期が始まる頃祖母が単身守っていた佐世保の家に急遽引っ越し、父も長崎から佐世保に集結しました。佐世保市も大空襲を受けていましたが、幸い我が家のある一角は祖母達の婦人消防隊の活躍により、延焼を食い止めたと祖母が自慢していました。
 軍港だった佐世保には間もなく大勢の米水兵が上陸して来ました。何をされるか判らないと心配して、皆家の中で息を潜めていましたが、事情の判らぬ幼い弟が家の外に遊びに飛び出したところ水兵達に見つかり、追いかけられて家に逃げ込んだ弟に何かを投げつけられました。爆弾ではないかと母が言いましたが、よく見るとチューイングガムでした。その後は、あちこちで水兵達が子供達を見つけてはチョコレートやガムを手渡す風景が日常化しました。
 学校では教科書の墨塗が始まり、米軍放出物資による給食も受けました。近所のお兄さんは、米軍の通訳官としての仕事を始め、やがて上官の斡旋で米国留学もしました。祖母は自宅で華道教室をやっていましたが、このお兄さんに伴われた米軍将校が華道見学に来宅しました。その際、立派な乗用車に乗せて貰ったりしました。
 (以下は2018年5月追記)以上の文章を四年振りに読み返して、子供らしい呑気さで書いた戦争体験と改めて感じました。戦時中父が良かれと思って長崎に呼び寄せた祖父と年長の従兄が原爆等の後遺症で戦後間もなく亡くなりました。私自身は数々の幸運に恵まれたと改めて感じます。

23●多様な体験情報の交換で出会う前の同期生間に奇縁もあったと知る 
HK  8月21日10:32  
(風船爆弾について)私の既にセピア色に変色した古い記憶もまんざら誤りではなかったようです。10数年前、ニューヨークの例の9・11テロの際、日本の解説者がテレビで「アメリカ本土を外国から攻撃されたのは、これが初めてだ」という趣旨の解説をしていました。これを聞いて、あぁ、風船爆弾の話はガセだったのか、と思ったのですが、伊達さんの素早い対応により、この解説は正確とは言い切れない、と理解しました。良し悪しは別として、我々の大先輩の努力が報われた、ということですね。テレビ解説者が知らない位なので、一般には知られていなかったのでしょう。
 HMさんの近くに落ちた原爆を、遥か彼方の鹿児島の片田舎からTYさんが見た、ということも同期の仲間の不思議(と言うほどでもないか?)な縁を感じます。TYさんの、かぼちゃを逆さまにした、という当時感じたままの表現にも好感を持てます。もし、当時そのように感じなかったら、恐らくキノコ状の云々、という表現になったでしょう。いろいろな面から楽しませていただいています。皆さんありがとう。

24●高梁盆地で疎開児童と聴く敗戦放送に大人たちはうなだれ黙りこくった 
伊達美徳  2014年8月31日 
みなさまの体験記「昭和二十年それぞれの夏」を、とりあえずまとめておきました。ここには実に多様な体験の記録があります。「向岳寮36」メーリングリストに垂れ流しのままではもったいないので、ここに「昭和二十年それぞれの夏」と題して、発信順に記したのです。
 そもそもの満州事変が起きた1931年から数えると、あしかけ15年もの長期間にわたった戦争が終わったのが1945年の夏、わたしたちは国民学校初等科の低学年でした。
 世の中のことが少しは分りかけようとしていた少年たちが、これから生きていく世界が激変する大事件に遭遇しました。その夏をどう乗り越えたのか、わたしの投げかけた問いに多くの仲間が反応してくださって、ありがとうございます。

 多くの仲間の終戦体験の話を読んで、わたしのように田舎町で空腹を抱えつつも平和に過ごしたものもいれば、原爆もある空襲や迫りくる外国軍から逃れる過酷な体験まで、実に多様にしてまさに歴史転換点のひとこまを展開していることに、衝撃を受け感銘さえもちました。
 なお、原爆については、向岳寮仲間の一人が、あまりに過酷なる体験をしたことを、わたしはご当人から聴いています。彼はここには語っていませんが、わたしの他にも聴いた人は多いはずです。その妹さんが母親からの聞き取りを本にして出版しています。わたしは以前にそのことをブログに記していましたので、お読みください。http://datey.blogspot.jp/2012/07/648.html
 暑い8月が終わったので、夏休みに宿題の話はこれくらいにしますが、まだ宿題を出していない子は、その気になったら、向岳寮36MLに載せてくだされば、ここに追加記載して配布します。また、訂正や追加などあれば、ご遠慮なくお寄せください。対応します。
 そのうちにまた、次のお題をだしますのでよろしく。ありがとうございました。
(以下は2018年5月追記)
 最初にこの「お題」を投げかけたわたしは、2000年に詳しい戦争体験記を書いています(参照:http://goo.gl/fGIZyb)。その一部をここに引用します。
「戦争疎開の悲劇もよく語られます。ところがわたしは、戦争疎開者を受け入れた側なのです。岡山県の高梁盆地のわたしの生家の神社には広い社務所があり、そこに兵庫県の芦屋市から国民学校6年生の女子学童たちが集団疎開でやってきていました。よくある疎開児童が田舎の子にいじめられたという話では、わたしはいじめる側の田舎の子でしたが、その頃はこちらが幼くひ弱で、むしろ都会の女の子にバカにされる側でした。その子たちの疎開中に芦屋が米軍の爆撃を受けて親が死んだ子もいて、可哀そうなことと家族の話題にあったおぼえがあります。
 1945年8月15日、敗戦の放送は、その疎開学級が持ってきていたラジオで聞いたのでした。ラジオも普及していない時代でしたから、近所の人たちも集まってきて、社務所前の軒下あたりで聞いていました。わたしは社務所の広縁の手すりにもたれて、それを見ていました。もちろん、8歳の幼年には、なにが起きているかわかりません。だが、終わってから神社の森の外に出ていく大人たちの列が、一様に黙りこくってうなだれて歩く様子は尋常ではありませんでした。
 あの日の太陽の明るさと、人々の暗さはわが脳裏に鮮明に刻まれています。それが敗戦だと知ったのは、その後の親たちの会話からです。飛行機がやってきてビラを撒いたが、それには放送は嘘だと書いてあった、なんて話もあったような気がします」
 (「少年の日の戦争」2000年より一部抜粋)
その8月の末日、父が3度目の戦争から帰還してきました。父は本土決戦の戦場予定地だった小田原で敗戦を迎えました。1931年からの十五年戦争に3度も応召し、通算7年半も戦場で過ごしていた父の戦争は、ようやくおわりました。やがて戦後農地改革によって食料源を奪われたわが家は、超インフレの中で飢えの日々が始まります。わたしにとって戦争被害は、戦後の飢えでした。
 戦中の父と家族のことを『父の十五年戦争』と題する冊子にして家族や親戚に配布し、わたしのウェブサイトに掲載しています。 https://sites.google.com/site/matimorig2x/15senso      

(2018年5月追加掲載)
25●奈良市内で玉音放送を聴き独特の抑揚の御声を記憶している
KJ  2018年5月14日15:37
父親が、軍属として戦地に行くことになり、昭和18年に、住み慣れた大阪・大宝寺町の薬局をたたみ、家族で奈良市内に疎開をしました。昭和20年3月に大阪大空襲があり、奈良市内の西側にある生駒山の夜空が夜通し赤く眺められたことを記憶しています。奈良市は空襲を受けなかったが、ある日、家の門の入り口の所に薬莢が落ちていたことがあり、機銃照射はあったのでしょう。
 昭和20年8月15日の当日は、家族でラジオの前に座り、玉音放送を聞きました。内容は理解出来ませんでしたが、ラジオから聞こえてくる声は、初めて聞く独特の抑揚のある御声であったことを感じたことを記憶しています。大人達は、皆、無口でした。
 終戦(敗戦)後の記憶では、奈良市も食料難で、小学校ではみんなで蝗を捕りに行き、それを乾燥して粉にしてパンを作り、それが給食に出て意外外においしかったこと、配給のナンバ粉(トウモロコシの粉)を使ってパンを焼くことになり、手作りのパン焼き器(木製の箱の両側にブリキの電極を取り付けたもの)で、電気をいれたら突然フューズが切れたこと、畑で作っていたサツマイモの茎の部分をオシタシにして食べたら、意外に美味しかったこと等が思い出されます。
 大阪の家は焼失して、奈良市に住み着くことになりました。父親はビルマで戦死し、ビルマの土となって帰って来ました。

(2019年6月追加掲載)
26●子供の目で見た『私の8月15日』
                          大竹 博 2019年6月15日13:43
 私は、北海道の小樽市で生まれ、そこで育った。小樽市は、通称、天狗山と呼ぶ800メートルほどの山を背にして、樺太、千島諸島や満州を結ぶ主要貿易港として発展した町である。
 物心がつきだした四歳のころ、私の両親と姉妹の五人家族は市内の二階建ての家に住んでいた。内部を洋風に改築したこの家の近くの野原で、蝶やトンボを追っかけ、小川でザリガニを捕まえ, また母と蕗のとうやヨモギ、それにウドの芽を採りに出かけた。冬には、そりとスキーをして雪の中を転げまわって遊んだ。この楽しい生活がほんの数年で、崩壊していったのである。
 二才年上の姉が、学校へ入ってまもなく、教育勅語を暗記するように言われ、毎日その練習を始めた。何度も繰り返される練習を聞いて、私も『朕思うに…』が暗唱できるようになった。勿論、何を意味するのか理解できなかった。
 そのうち私も、一年生になって、毎朝、近所の上級生に引率されて、学校へ通った。途中、空襲警報が鳴って、家へ引き返したこともあった。上級生は「天皇陛下の御真影への最敬礼、授業始めの『起立ッ、礼』の挨拶、講堂での朝礼での振る舞いを間違うと、往復ビンタの罰を喰らうゾ」と、注意してくれた。
 私の家から50メートルほど離れた所にある空地に防空壕が作られた。子供の目には強固に見えたが、2メートル超の積雪には耐えきれず、次の年の雪解け時に屋根が陥没してしまった。不思議なことに、誰も「壊れた防空壕を直そう」とは言わなかった。
 北海道は寒いので、熊笹はあるが竹は育たない。春、雪が解けだす頃、不思議な事が起こった。私の家の箒の竹の柄が抜き取られていたのである。病気勝ちの母をサポートしていた家政婦が、「柄のある箒がなければ仕事はできません」と、抗議した。実は、家にある竹は箒の柄だけなので、父が竹を抜き取ったのであった。同様なことは、町内の全家庭でも起きていた。しかも、抜き取られた竹の一端は鋭く削られていた。両親に幾度聞いても、何をするためのものかは、口をかたく閉ざして話してくれなかった。
 この頃、学校は休校になり、自宅で自習するように指示された。そんなある日、二人の陸軍兵が、私の家に割り当てられた。「妻と子供を家に残して来た」と言っていた。私の家に一泊して、翌日小樽の港から千島諸島へ向かう予定だとも漏らしていた。私の見たこともないようなご馳走が二人のために用意された。翌朝、二人の兵隊は、何度も礼を言って家を出て行った。数ケ月後、千島諸島での日本軍の玉砕が伝えられた。
 雪が解けた初夏のある日、家の近くの公園で、ある行事が行われた。子供は公園に入ることはおろか、近づくことも許されなかったが、遠くから聞こえて来る叫び声から、何かの武芸の練習が行われたことを知った。箒の柄で作った竹竿を持った鉢巻姿の父が、この行事に参加して、家に帰るやいなや、部屋を閉め切って、母と何か大切そうなことを相談していた。何度聞いても、何を話したのかは教えてくれなかった。数日後、学校へ引率してくれる上級生が、私の胸を突き破るような本当のことを話してくれた。「父さんと母さんが竹槍で突っ込む前に、俺達は死ななきゃならないんダ」と。
 その年の梅雨が明けた頃だったと思う。それは、ほんの一瞬の出来事だった。天狗山方面から、「ゴゴウ……」というもの凄い音の嵐が襲って来て、私の体を激しく揺すぶった。反射的に両手で顔と頭を覆った。両手の指の間から見た。黒い、巨大な蝙蝠のような物が、目に飛び込んできた。それは、近くの建物の屋根すれすれに、小樽の港の方に飛んでいったのである。
 しばらくして、ただ呆然と、眼下の小樽港を見ている自分に気が付いた。数日後、あれがB‐29という爆撃機で、超低空飛行で小樽の町を二つに割るような軌跡で飛び去ったことを知らされた。
 8月15日は、私にとって、忘れることのない日になっている。あの天皇陛下の玉音放送が終わった直後、私の家の周りは異常に静まり返っていた。何時もなら、下町の喧騒が聞こえて来るのに、それが無くなっていたのである。
 その静寂の中から、母が飛び出してきて言った。「博、よかったね。私達、死ななくてもいいようになったんだよ。よかったね。ヒロシ!!」と言って、強く手を握り締めてくれた。母の目から、涙があふれ出ていたが、それは嬉し泣きだということが、はっきりと分かった。
 数日後、あの箒の柄から作った竹槍は、いつの間にか処分されていることに気が付いた。

(完)

注:この記録は、記録者たちの了解を得て、ここに掲載した。
http://kgr36.blogspot.jp/p/blog-page_8.html
また、PDF版を下記URLからダウンロードできる。
        (2018年5月5日 伊達美徳)

参照:戦争体験記『昭和二十年それぞれの夏』掲載にあたって2018/05/08

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